Advaita(アドヴァイタ)
ノンデュアリティ(非二元)
~解放へのシンプルガイド~
こんにちは。
このサイトを訪れて下さいましてありがとうございます。
アドヴァイタ、非二元、悟り、解放、目覚め、真我探求、ヨガ、瞑想…
このようなことについて知りたいという皆様の一助になればと思い運営しています。
真の教えというのは、言葉で全てを説明するのも、理解することも不可能です。
言葉は概念で、解放そのものを表現することはできません。
けれど、解放や目覚めについて書かれている言葉に触れることで、
探求が始まることや、深まることはあります。
頭で細かく整理したり分類したり、過去の経験や知識と照らし合わせてしまうと、
本当に大切な部分が抜け落ちてしまうので、
どうかリラックスして、そして先入観なしに読んで頂けるとうれしいです。
目醒め、解放、悟りとは?
悟りという言葉は、その言葉のイメージだけが独り歩きして、多くの人に誤解を与えがちです。
ヒマラヤの山奥にこもった賢者が至る境地だとか、清貧、無欲、俗世界からの完全な隔絶だとか、これは、本当に間違った認識です。
悟りや目醒めるというのはシンプルです。
分離した個人がいるという錯覚から醒めることです。
個別の誰かがいるという錯覚が生み出す苦悩から自由になる事です。それゆえ、悟りを「解放」と表現する先生もいます。
苦悩から自由になるとは、幸せがここではないどこかにあるとか、
今の自分ではない何者かになった時に得られるという偽物の信念と努力が止んで、
「今まさにここにあるこれ」が聖なる現実で、それがすべてなのだとわかることです。
わたしはずっとここにいて、わたしはずっとこれだったのだとわかることです。
今まで明らかにいると思ってきた私という個人はいません。
行為の真ん中にいると思い込んでいた主体的な誰かは、どこにもいないことがわかるのです。
え、自分がいないなんで怖いですか?
それが怖いと言って個別の私にしがみつこうとするのは、いったい誰なのでしょうか…?
目が醒めたらどうなるの?
「これがこうなって、ここに到達したらゴール!」こんな風に、
悟りというゴールテープを悟った人が切るわけではありません。
「悟った状態」というものはありませんし、
「解放」という明らかな状況や状態があって、それを目指す、ということではありません。
分離して存在している誰かがいないということがわかると、
没個性化して曖昧模糊とした、無感情、無気力、非活動的になるのではないかと心配する方がいますが、それもそうはなりません。
(一時的に無気力な感じになったり、全て夢のように感じる時期があることはあるのですが、それも通り過ぎてゆきます)
個人的に受け止め深刻になることは少なくなります。問題や葛藤が土台から崩れてゆきます。
そもそも世界には(もちろんあなたも含めて)何も問題など存在しないことを見向くことができると、
あるがままの今ここにくつろぐことができます。
ただし、病気をしないとか、嫌な気分をそれ以降味あわないということではありませんし、
決して感情的になることがないとか、突然高尚な人格になるわけでもありません。
パートナーとの喧嘩や親子の葛藤や、相性の合わない上司が消えてしまうということを信じているなら、それは違います。
そういうことは起き続けます。(もちろん起きることが少なくなる、ということもあるかもしれません)
しかし、それを引き起こしている誰かがいないことはわかります。
起きることがただ起きているということがわかり、
現実を自分に都合のいいように変えようとする自我(エゴ)の動きを見抜けるようになるので、
むしろ、「わたしそのものとして」普通に生きられるようになり、
また周囲の人に対しても自然とあるがままを許せるようになり、真の思いやり、慈悲が芽生えます。
何もわからないという不安定さや無方向性を許すことができるようになります。
何かをつかもうとする理性の活動が止まって、「今ここ」という直接性に留まることが普通になります。
何も心配いらないことがわかり、無意識にため込んでいた緊張や収縮のエネルギーが解き放たれます。
今あるままのすべてが完璧だと気付き、何にもしがみつかずにくつろぐことができるようになります。
日常生活のごたごたや些末さ、平凡さの中に無条件の幸せをみることができるようになります。
何も避ける必要がないので、徹底的に泣くことも怒ることもできるようになります。
色々な表現をしてみましたが、自分がコントロールできることがない!とか、
何も知らないということがわかるということを明らかに観るということは、
あーなんて自由なのでしょうか。
Don’t worry be happy!!と心から笑えるようになります。
人生はシンプルでとっても軽やかなんですよ。
YOGA
ヨガは傑出した叡智であり、
私たちに届けられた先人からのギフトです。
大変なヨガブームの中で、多くの方がこの素晴らしい叡智に触れる機会が増えています。
そして、ヨガを体操やトレーニング、リラクゼーション法と思われている方多いですね。
しかし、ヨガとは本来は、自己の本質を知る為の一つの方便(道具)です。
アーサナを通して気が付いてゆかねばならないことは、
からだとの関係性やこれまでからだをどのように考えてきたかということです。
そして最終的には、そのからだについての考えを手放してゆくことが大切です。
からだをコントロールしたり、ポーズの完成を目指して行うヨガも、
もちろん悪くはないんです。
けれど「このからだが私である」という思い込みから離れてゆくには、
コントロールをサポートに切り替え、『からだと共に取り組む』必要があります。
クラスでは、からだを概念的に捉えることを止め、
こころとからだを自分だとすることから離れてゆくことをお伝えしてゆきます。
主な流れは、
チャンティング(マントラの詠唱)
アーサナプラクティス
呼吸法
サイレントタイム
難しいことはありません。誰でもご参加いただけます。
★クラス詳細とお申込みはこちらをご参照下さい。